終息の美
幕下ろして一年。主人は多く語る事なく幕は下ろされた。主人以外の多くの人は多くを語る。何が語れるのだろう。終わり間際のほんの数センチを共にした者に何が語れる。ほとんどが自分のセンチメンタリスムを語ってるに過ぎない。誰がどうした、何を残した。偉業や功績、自分の関わり、思い入れ。そこにいた自分のポジション。ただそれを語るだけだ。この建物の本来の姿、あり方は誰も語らない。いや、語ることはできない。多くを語る人はこの建物で何もしていないし、何も自分では作っていないから。大きな懐で暫し夢を見させてもらったに過ぎないのだ。
この建物は育てる事はしない。ただ大きな空洞を何かで埋めていたかったのだ。それは主人焦がれた芸術と名のつくもなら尚更良かった。
この建物は主人その物なのである。大きな空洞を抱えた主人その物がこの館だったにちがいない。
おそらく何一つ満たされる事なく、作った当時のまま大きな空洞を抱えたまま、幕は下ろされたのだ。
誰も語れ者はいないはずだ。その空洞をちゃんと理解し埋める事ができなかったのだから。館の空洞にまで手が届いてないのだから。
それでも多くを語りたがる輩は所詮己のため、大きく見せ、存在価値を高めるためのただの道具でしかない。

あの館はなんとも思ってない。いつも定期的にあえて空洞を作ることにたけていたからね。空洞は空洞のままじゃないと困るのだ。

夢を追うこと、希望を持って前を向く事は簡単だ。
一番、難しく勇気がいるのはその全てを終わらせることだ。
夢を終らせること。希望の炎を消すこと。
何も語らず幕をおろし。静かに佇む。
終息の美がある。
主人なくとも、主人その者としてそこにある。空洞のままそこにある。
ある意味これが完成形だとも思える。
この館の意思を継ぐ。。なんて無理なのだ、この館の事はこの館での出来事。
全て綺麗にここに葬られたのだと思える
終息にご尽力なさった家族は大変だったと思うけど、ほっとしてらっしゃるのではと思う。やっと主人が戻ってきた。心の空洞はこの館に預けて、静かに眠れるのではないだろうか。

僕としては数年戯れた事は忘れない。
そう、風景としたあの時期あのときあの空洞に必要だっただけなのだ。
久しぶりに前に立つと大きく見えた。
懐かしさがないのはなぜなんだろう。
また来年も会いに来ることにするかな。
本当に綺麗なたたずまいだなぁー。
と改めて見直してしまうのです。
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